私のソレは男の人のセンチメンタルジャーニーと似ている。

 

久方ぶりに、心の底から幸せになってほしいと思う人に出会ってしまった。

 

会うのは2度目だけれど。

 

別段この気持ちは熱情のような刹那的感情ではなく、

 

そのひとの人生の行く末を

遠く、或いは近所的なところから

見守っていくことができたらという欲張りだ。

 

自分じゃ幸せにしてあげられないけれど

幸せになってほしいという

他人を崇高な気持ちで想うような

傲慢で独りよがりな願望であり

またそれに近い言葉があるとすれば

無責任、その一言に尽きると思う。

 

センチメンタルジャーニー。

俺じゃ幸せにしてあげられない。

なんて無責任で傲慢なのかしらと思える

その気持ちをいつか自分が分かってしまう日が来るとは思ってもみなかった。

 

私じゃ幸せにしてあげられない。

それは己の自信のなさから来る言葉である。

今の自分ではその人を幸せにしてあげられないから

と言って向き合うわけではなく

最初から選手としてスタートラインに立たず、

傍観者としての席を自主的に設けるわけだ。

 

 

過去にそれに近いような感情を持ったこともあるが、今回は特別だ。

美しい絵画が同じように若くして美しいほかの誰のものにもならないのと同じである。

 

 

その人は私のことを決して可愛いとは言わない。

そこがたまらなく好きで、非常に信頼のおけるところでもある。

 

「かわいい」という言葉は

それこそ同性から言われるとすこぶる嬉しいが、

 

異性から言われるそれには

その単語に含まれるありとあらゆる意味を勘繰っては嫌悪感をどうしても拭えない。

 

だからこそ、かわいいと言わないその人が私はただひとりの人として堪らなく好ましく思えるのだ。

 

その人はとてもとてもモテた人だと思う。

女性が好む全てを知っていると言っても過言ではないだろう。

その一挙手一投足がそう感じさせる。自然体で言葉運びが狡くて的確である。

ただ、その人にも生きてきた時代があり

過ぎ去ってしまったそこには色々な思い出が詰まっているに違いない。

どんなに好かれる人でも、たったひとり大切な人と出会って恒久的な関係を築くのは難しく、それを自ら望んでも一生得られない事もある。

 

ちょっと、しょげていた。私がいうのもおこがましいのだが、その不器用さを分かって側にいてあげられる人は本当に居なかったんだろうか。

 

その人が私に創ったそれを見て私は

嬉しさを言葉で表現する事ができなかった。

ただ口角が自然と上がってしまうんだということを体現する事しかできなかった。

 

すると、どうだろうか。

僭越ながら、顔を真っ赤にして照れるその姿は大変可愛らしく、羨ましさすら覚える。

 

もちろんその照れる姿を見て、私まで恥ずかしくなってしまったのは、言うまでもない。

 

そんな可愛らしいひとに私は、いつか誰かと過ごす幸せを掴んでほしいと心の底から思う。

 

とても良い人なのだ。可愛くて少し不器用で繊細で。

 

過去の自分を恥ずかしいと思うことができる笑顔の素敵な人なのだ。

 

私のこの気持ちは、男の人の

センチメンタルジャーニー。

それに限りなく近いものなのである。

 

次会うのはいつだろうか、

私の気分と努力次第ではあるが

 

また会ったときは笑わせてあげたいと思う。